お寺でのお勤めはお経を読むことと思われており、浄土真宗にはお経として「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の浄土三部経がありますが、平生は正信偈をお勤めすることがほとんどです。。本日は正信偈をお勤めされてました。しかし、正信偈はお経ではありません。お経はお釈迦様が説かれたものといわれています。全てのお経をお釈迦様が説いたものとは限りませんが、仏法の精神は受け継がれて私たちに伝わっています。私のお寺がある奈良県香芝の地域では冠婚葬祭を通じて仏法に触れる機会があります。しかし、近くにたくさんある新興住宅地にはお寺がないので、仏法に触れる機会がありません。ですが、そういった方もお葬式などをご縁として仏法に触れ、興味を示してくれることもあります。宗教離れとよく言われますが、日本人としての文化の底には仏教の精神が流れていることがわかると思います。
正信偈は親鸞聖人の著作である教行信証(正式名称は「顕浄土真実教行証文類」)の中に書かれている詩歌です。「顕浄土真実教行証文類」は「浄土の真実を顕(あきら)かにする教と行と証について書かれた文章を集めたもの」という意味です。つまり浄土に関する様々なお経のエッセンスを集めた書物ということです。「教」はその教えを指し、「行」はその教えに従って生きること、「証」はそれによって悟りを得ることです。その略称にはさらに「信」という文字が追加されています。「教」「行」「証」は仏教においてはどの宗派においても共通するものですが、普通の暮らしを営む人にとって「行(修行)」を行うことは容易ではありません。そういう人は悟りの境地に至ることはできなくなってしまいます。必ず私たちは救われるという阿弥陀仏の教えを信じることが真宗門徒の「行」であり、そういう意味では「行」と「信」は一致します。そのため、この大切な意味を有する「信」の文字を追加してあります。教行信証の中で、信巻が一番量が多いことからも「信」が大切なことであることがわかります。
正信偈の中で「蓮華蔵世界」という言葉が出てきます。これは華厳経というお経に出てくる、お浄土のことを表す言葉です。また、同じく正信偈の中の「分陀利華」という言葉は白蓮華(白い蓮華の花)のことで、「観無量寿経」というお経の中に「念仏を称える人は白い蓮のような人です」と記しています。維摩経というお経の中には「譬えば高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の汚泥にすなわち此の華を生ずるが如し。」と信心の定まった人のことを蓮華に例え、汚泥のことを私たちの住む煩悩にまみれた娑婆世界に例えています。私たちは生きていくために殺生をしたり、嘘をついたりと多くの罪を犯しています。これを当たり前のように思っていると、ずっと泥の世界に埋まったままです。しかし、そのことを受け止めて生きられるようになると、生きることがありがたく、一層の喜びに溢れることとなります。他人に迷惑をかけずに生きることができないものが人間であり、そのことを自覚し、生かさせていただいていることに気付くと、あらゆるものに対してありがたいという気持ちが生まれ、充実した人生を送ることができます。
蓮華の特徴を言う「淤泥不染の徳」はこのような信心を得た人にたとえられます。信心という花は煩悩にまみれた私たちの生活の中から花開くからです。また、これは「蓮華の五徳」と呼ばれる五つの徳の一つです。
五徳の中の残り4つの徳ですが、「一茎一花の徳」とは1本の茎の上には1つの花しか咲かないことから、私たちのいのちは一人ひとりに固有のもので、他の誰とも変わりようがないということを表しています。
「花果同時の徳」とは蓮の花は咲いたときに同時に実が出来ている様を指します。私たちにとって、段階を踏みながら修行し、その修行の成果として花を咲かせ、涅槃という実を実らせるということは大変に困難なことです。しかし、信心の世界では自分が生かされているということに気付いたときには既に救われています。信心に目覚めたときには信心が定まる様子を蓮の花が咲くと同時に実ることに例えています。
「一花多果の徳」は一本の蓮の花にたくさんの実ができる様子を指しています。真実の教えに出会うと、一気にたくさんの真実が見えてくることを例えています。それが多くの人々の幸せに繋がっていくことでもあります。
「中虚外直の徳」は蓮の茎に栄養を運ぶために管のように穴が開いている様子を指します。奈良のお寺では蓮の葉にお酒をついで、反対側の茎の先からお酒を飲む「象鼻杯」を初夏の風物詩としてイベントを行っているところがあります。茎が立って、その先に花をつけている様子は一見すると弱くてすぐに折れてしまいそうですが、空洞が茎の中にあることによって強度が増しています。私たちはそれぞれ弱い人間ですが、信心をいただくことにより大きな蓮の花を支えられるほどの強さを得ることができます。蓮の花を私たちが見ることによってお念仏をいただき信心を得ることの大切さを知り、人生の方向を確認することができます。
たとえ五濁悪世の世の中であっても、その世界の中には五徳が存在します。それを知るため法座の場はいつでも皆様を歓迎する場であり、ありがたい場であることを多くの方に知ってほしいと思います。
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