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真宗の教え

PREACHING

2018/03/08

 

お寺でのお勤めはお経を読むことと思われており、浄土真宗にはお経として「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の浄土三部経がありますが、平生は正信偈をお勤めすることがほとんどです。。本日は正信偈をお勤めされてました。しかし、正信偈はお経ではありません。お経はお釈迦様が説かれたものといわれています。全てのお経をお釈迦様が説いたものとは限りませんが、仏法の精神は受け継がれて私たちに伝わっています。私のお寺がある奈良県香芝の地域では冠婚葬祭を通じて仏法に触れる機会があります。しかし、近くにたくさんある新興住宅地にはお寺がないので、仏法に触れる機会がありません。ですが、そういった方もお葬式などをご縁として仏法に触れ、興味を示してくれることもあります。宗教離れとよく言われますが、日本人としての文化の底には仏教の精神が流れていることがわかると思います。

 

正信偈は親鸞聖人の著作である教行信証(正式名称は「顕浄土真実教行証文類」)の中に書かれている詩歌です。「顕浄土真実教行証文類」は「浄土の真実を顕(あきら)かにする教と行と証について書かれた文章を集めたもの」という意味です。つまり浄土に関する様々なお経のエッセンスを集めた書物ということです。「教」はその教えを指し、「行」はその教えに従って生きること、「証」はそれによって悟りを得ることです。その略称にはさらに「信」という文字が追加されています。「教」「行」「証」は仏教においてはどの宗派においても共通するものですが、普通の暮らしを営む人にとって「行(修行)」を行うことは容易ではありません。そういう人は悟りの境地に至ることはできなくなってしまいます。必ず私たちは救われるという阿弥陀仏の教えを信じることが真宗門徒の「行」であり、そういう意味では「行」と「信」は一致します。そのため、この大切な意味を有する「信」の文字を追加してあります。教行信証の中で、信巻が一番量が多いことからも「信」が大切なことであることがわかります。

 

正信偈の中で「蓮華蔵世界」という言葉が出てきます。これは華厳経というお経に出てくる、お浄土のことを表す言葉です。また、同じく正信偈の中の「分陀利華」という言葉は白蓮華(白い蓮華の花)のことで、「観無量寿経」というお経の中に「念仏を称える人は白い蓮のような人です」と記しています。維摩経というお経の中には「譬えば高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の汚泥にすなわち此の華を生ずるが如し。」と信心の定まった人のことを蓮華に例え、汚泥のことを私たちの住む煩悩にまみれた娑婆世界に例えています。私たちは生きていくために殺生をしたり、嘘をついたりと多くの罪を犯しています。これを当たり前のように思っていると、ずっと泥の世界に埋まったままです。しかし、そのことを受け止めて生きられるようになると、生きることがありがたく、一層の喜びに溢れることとなります。他人に迷惑をかけずに生きることができないものが人間であり、そのことを自覚し、生かさせていただいていることに気付くと、あらゆるものに対してありがたいという気持ちが生まれ、充実した人生を送ることができます。

 

蓮華の特徴を言う「淤泥不染の徳」はこのような信心を得た人にたとえられます。信心という花は煩悩にまみれた私たちの生活の中から花開くからです。また、これは「蓮華の五徳」と呼ばれる五つの徳の一つです。

 

五徳の中の残り4つの徳ですが、「一茎一花の徳」とは1本の茎の上には1つの花しか咲かないことから、私たちのいのちは一人ひとりに固有のもので、他の誰とも変わりようがないということを表しています。

 

「花果同時の徳」とは蓮の花は咲いたときに同時に実が出来ている様を指します。私たちにとって、段階を踏みながら修行し、その修行の成果として花を咲かせ、涅槃という実を実らせるということは大変に困難なことです。しかし、信心の世界では自分が生かされているということに気付いたときには既に救われています。信心に目覚めたときには信心が定まる様子を蓮の花が咲くと同時に実ることに例えています。

 

「一花多果の徳」は一本の蓮の花にたくさんの実ができる様子を指しています。真実の教えに出会うと、一気にたくさんの真実が見えてくることを例えています。それが多くの人々の幸せに繋がっていくことでもあります。

 

「中虚外直の徳」は蓮の茎に栄養を運ぶために管のように穴が開いている様子を指します。奈良のお寺では蓮の葉にお酒をついで、反対側の茎の先からお酒を飲む「象鼻杯」を初夏の風物詩としてイベントを行っているところがあります。茎が立って、その先に花をつけている様子は一見すると弱くてすぐに折れてしまいそうですが、空洞が茎の中にあることによって強度が増しています。私たちはそれぞれ弱い人間ですが、信心をいただくことにより大きな蓮の花を支えられるほどの強さを得ることができます。蓮の花を私たちが見ることによってお念仏をいただき信心を得ることの大切さを知り、人生の方向を確認することができます。

 

たとえ五濁悪世の世の中であっても、その世界の中には五徳が存在します。それを知るため法座の場はいつでも皆様を歓迎する場であり、ありがたい場であることを多くの方に知ってほしいと思います。

 

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2018/02/02

 

昔から故郷を想ってうたわれた詩歌はたくさんあります。しかし、生涯生まれ故郷を離れない人は故郷への郷愁はあまりないものだと思います。先日、京都の町屋で催された写真展を見に行く機会があり、たまたま相席になった方とお話をしました。神戸の出身で、震災後イギリスに渡り、それ以来イギリスに住んでいる方でした。海外に住んでいると望郷の念が募りますが、震災後すっかり町並みが変わってしまって、今の神戸はその方の抱いているイメージとは異なるものだそうです。望郷の思いはありますが、実際に帰って来ると寂しい思いをするそうです。私も時々帰郷しますが、抱いているイメージとは異なるところもあり少々寂しい思いもします。東北は震災後復興が進んでいますが、町並みや田畑は震災前と全く同じ状態に戻るわけではありません。見た目だけではなく、そこでの生活や文化など全てを含めたものを故郷と実感するものなのでしょう。生活環境が変わってしまったため、帰りたくても生活が成り立たないなどの理由で帰れないと思っている方もたくさんおられます。故郷に対する思いは人によってそれぞれ異なる思いがあります。

 

私の住んでいる奈良はとてもいいところなのですが、生まれてからずっと住んでいる人はなかなかそのよさには気づいていません。古典には奈良に関する記述がたくさん見られます。古事記の中で日本武尊が故郷を想って詠ったのが「やまとは国のまほろば 畳なづく 青垣山籠れる 大和しうるはし」です。万葉集にも奈良に関する多くの詩があり、その一つに「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は」が、また松尾芭蕉は「奈良七重七堂伽藍八重桜」とかつて繁栄した平城京を想って詠んでいます。その句から想を得て「奈良七重菜の花つゞき五形(れんげ)咲く」と夏目漱石が正岡子規に送った俳句があります。子規も「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」という有名な句を漱石に送っています。

 

私の住む香芝市は最近急速に人口が増加し、住宅が増加したため、レンゲ畑もすっかり見られなくなりました。れんげは自然に咲いているのではなく、人間が種をまいて育てていました。そして田植えの前に、レンゲを土に鋤きこんで、肥料(緑肥)とします。レンゲは根に窒素を蓄えているので、その窒素が肥料になります。根に根粒菌が寄生しており、レンゲから栄養をもらう一方、レンゲに対して窒素を供給する役割を果たしています。レンゲと根粒菌はこのように共生をしながら、結果的に稲作に対しても肥料を供給しています。

 

親鸞聖人は阿弥陀仏の浄土を蓮華蔵世界と正信偈に訳しています。蓮の華に託し、そう表現するのはあらゆるものがそれぞれのはたらきを持っており、気づいていないことも多々ありますが、様々なところでお互いに関連し共生しているという世界観です。蓮の華と同じ名を持つレンゲ草ですが、レンゲ畑ののどかな風景はお米を育てるために必要な光景ですし、そのために根粒菌という目にも見えない小さな菌の助けが必要です。

 

しかし、最近は休耕田もすっかり増えてレンゲ畑を目にする機会は少なくなりました。この理由は休耕田が増えただけではなく、化学肥料が普及してきたこともあります。化学肥料は手間をかけることなく、窒素を与えることができるからです。そのため、手間のかかるレンゲを肥料として育てる農家の人は少なくなりました。

 

一方、はちみつを採るためにレンゲを積極的に育てている人もいます。レンゲは蓮の花に形が似ているため蓮華と言います。蓮の花は一本の茎の上に花がひとつ咲きます。レンゲは一見、一本の茎に花が一つのように見えますが、よく見ると一つの花ではなく、多くの小さな花が集まって蓮の花の形のようになっています。一つ一つの小さな花は筒状に細くなっていて、蜂がきちんと花の上にとまらないと蜜を吸うことができないようになっています。蜂がとまると、おしべとめしべが重みによって外に出てきて、蜂に花粉がつき、他の花で受粉します。レンゲは蜂に蜜をやる代わりに受粉を助けてもらい、互いに共生することが可能になっています。このようにレンゲは色々なものと共生しています。

 

私たちは日常生活において、「自分はこれだけしてあげているのに、あの人は何もしてくれなくて、恩知らずだ」と思うときがあります。しかし、私たちはご先祖様をはじめ、色々なものの恩恵を受けて生きさせていただいていますが、そのことになかなか気付けないので、それに対して感謝することはあまりありません。普段、自分は自分の思いや甲斐性で生きていると思っています。しかし、こうして聞法することで色々な恩を受けて生かさせていただいている自分に気付く機会を時々でも持つことができると、他者に対して「ありがたい」という気持ちを持って生きることができるのではないでしょうか。不平不満を持ち続けて死んでしまうよりずっと豊かな人生を送ることができます。共生しているという事実を自然の営みから気付かせてもらうということは大切なことだと思います。

 

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2018/01/08

 

忙しいという字は心を亡ぼすと書きます。安田理深先生は忙しいということは暇な証拠だと言われました。忙しいということは「どこに向かって生きているのか」、「何のために生まれてきたのか」という人生の根本問題を考えなくて済むからです。お寺では「お忙しい中」とは言わずに「ご多用の中」と言います。つまり「おおきなはたらきの中」という意味です。

 

告別式は肉体や目に見えるものとの別れであるとともに、目に見えないものとの出会いの場でもあります。それはその人の願い、想い、面影やことばの響きなどの温もり、そういったものと再び出会うことがお葬式の大事な意味合いだと思います。

 

先日、「死は終わりを意味する。しかし残された者にとっては始まりを意味する」ということばを目にしました。別れることによって、亡くなった方のことばが心に響き始めます。また、「出会いが人を育てていく。別れは人を深めていく」ということばも目にしました。死を大切なものとしていただいていくことが大事なことだと思います。仏教は生きるということに関わっている教えであり、先達も親鸞聖人の教えを通して人生を見つめなおしてきました。

 

なぜ見つめなおさなければならないのかというと、人間は砂漠や草原など依るべきものが何もない、文字通り目印になるものが何一つない、とりとめもない広がりを歩くと、自分ではまっすぐに歩いていると思っても利き手の方向に段々ずれていって、いずれは元の場所に戻ってしまうそうです。これを循環彷徨といいます。そこに目印としての木があれば、ずれていることに気付くことができます。我々の生活においても「教え」が目印となって得手の方に曲がっていることに気付かせ、本来の進むべき方向を指し示してくれます。親鸞聖人は「教行信証」に「行に迷い、信に惑う」と言われました。「行」は「行動」です。「信」とは自分の「信念」です。自分に自信を持つときは誰の意見も聞きません。そのときの惑いはとても深いまよいとなります。信念を持ってまっすぐに生きていると思っていても、教えを聞くことによって、自分が惑っていたことに気付かされます。

 

親鸞聖人は「浄土真宗」を宗派の名称としてではなく、「浄土を本当の拠り所として生きる」という意味とされたと思います。浄土は私たちが帰っていく世界です。私たちは日々「死」という別れの世界に近づいていきますが、同時に浄土という出会いの世界に日々近づいていきます。出会える世界をいただけることによって、苦しみの多い娑婆世界を生きることができるのでしょう。そういう意味で帰る世界としての浄土は私たちにとって大切な世界だと思います。

 

一楽真先生は著書の中で、「もしお浄土がどこかにあると仮定しましょう。でもそこに私が行くことによってすぐに穢土にしてしまうでしょう。浄土は場所の問題ではなく、生き方の問題だと思います」と書かれています。摂取不捨とは「えらばず、きらわず、みすてず」という生き方でしょう。阿弥陀様にお参りするということは「いやなことも、つらいこともいただきます」という生き方をいただくということでしょう。また苦しい事実を受け止められなかった自分を顧みて、改めてお念仏をいただくという意味合いもあると思います。

 

浄土とは場所の問題ではなく、生き方の問題です。浄土とは阿弥陀様が摂取不捨として全ての人を受け入れるところとして建立されたところです。そういう浄土に日一日近づいている私たちにとって、摂取不捨という生き方はとても大事なものだと思います。「せめて」という言葉は私たちの日々の生活にとって大切なものですが、実際には「どうせ」という言葉によって生きています。「選んで、嫌って、見捨て」ている私たちに、阿弥陀様は「えらばず、きらわず、みすてず」と呼び掛けられており、それこそがお浄土からのはたらきです。「老後」という言葉ができたのは明治時代以降だそうです。本来は「老入」つまり「老いに入る」という言葉だったそうです。誰もが「老いに入る」つまり変化し続けているということです。二十歳までは成長で、それ以降は老化が始まります。はた目にはよく変化がわかりませんが、少しづつ確実に老入していきます。東井義雄先生の詩に「雨」を詠んだものがあります。「天に向かってブツブツ言うな 雨の日には雨の日の生き方がある」というものです。悲しい時には悲しいときの生き方が、老いた時には老いた時の生き方が、病の時には病の時の生き方があります。どんなときも「えらばず、きらわず、みすてず」という言葉はブツブツ言うしかない私たちにこそ聞こえてくるのでしょう。また、東井義雄先生の詩に「老い」を詠んだものもあります。

 

「老」は失われていく過程のことではあるけれども得させてもらう過程でもある
視力はだんだん失われていくが花がだんだん美しく不思議に見させてもらえるようになる
聴力はだんだん失われていくがものいわぬ花の声が聞こえるようになる
蟻の声が聞こえるようになる みみずの声が聞こえるようになる
体力はどんどん失われていくがあたりまえであることのただごとでなさが
体中にわからせてもらえるようになる
失われていくことはさみしいが 得させていただくことは よろこび
「老」のよろこびは 得させていただく よろこび

 

和田稠先生は「老いることは凄まじいが別に他人にわかってもらおうとは思いません。どうぞ元気で長生きして下さい。元気にして年いけばそのうちわかります」とおっしゃってました。老いることによって通じることや気が付くことがあるということだと思います。苦悩の中でこそ出会えるものがあるということです。

 

私の勝手な解釈ですが、阿弥陀様の本願、第十一願「必至滅度の願」を、必ず通ずるというふうにいただいています。必ず通じて、響き合う世界がお浄土だと思います。今は通じなくても必ず通じる世界がある。仏壇に手を合わせている姿が必ず子どもや孫にいつか通ずる。苦悩と出会い、苦しみや悩みを「えらばず、きらわず、みすてず」いただいていくことが大切なことでしょう。苦悩を摂取することは知らないうちに私たちの力となります。

 

藤元正樹先生のことばに「花咲かす 見えぬ力を 春という」というものがあります。春はそれを感じる人のところに力となってやってきます。このことばの後は「人となす 見えぬ力を 仏という」です。私を人として育てるはたらきのことを仏というのでしょう。

 

私の弟は長浜で住職をしていますが、ある子どもが日曜学校のときに阿弥陀様の摂取不捨のポーズを見てこう言ったそうです。「阿弥陀様がOKと言ってるよ」。この言葉はまさに阿弥陀様の「えらばず、きらわず、みすてず」のお心を表しているものだと思います。「あなたはあなたのままでいいんですよ」という呼びかけは、自分のことですらえらんで、きらって見捨ててしまっている私たちにとって本当にかけがえのない呼びかけだと思います。

 

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