浄土真宗はたくさんある仏教の宗派の一つだと思われていますが、そういうことではありません。「仏教、ここにあり!」という意味が「浄土真宗」という意味です。親鸞聖人は「生きた仏の教えがここにある」という意味で「浄土真宗」と言われました。親鸞聖人の著作として有名なものに「教行信証」というものがあります。これは浄土真宗の根本聖典であり、親鸞聖人が何度も推敲を重ねた上で完成に至った本です。
教行信証の教巻には「謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり、一つには往相、二つには還相なり。」という言葉が記してあります。如来回向とは阿弥陀様から届けて下さる仏道です。普通、仏道を歩むとは、私たちが修行をして仏の悟りの世界に近づくことを言います。親鸞聖人は如来回向として阿弥陀様が私たちに近づいて下さり、如来回向の仏道こそが仏教であると考えました。その如来回向こそが親鸞聖人自身が救われた仏道です。法然上人、親鸞聖人は共に比叡山で仏道に入られました。法然上人は13歳で仏道に入られて、43歳でお念仏に出遇われました。親鸞聖人は9歳で仏道に入られて、29歳で法然上人門下に入られました。いずれも長い修行期間を経た上で如来回向のお念仏の道に入られました。
最澄と言えば比叡山を開かれたことで有名な高僧ですが、自身を「底下の最澄」と言われました。これは「最も劣った最澄」という意味です。最澄は懸命に戒律を守って仏道を歩まれましたが、だからこそ出てきた言葉であると言った先生がおられます。最澄ほどの僧侶が最低な人として自身を評価しました。こういった厳しい修行を伴う比叡山では法然上人・親鸞聖人共に救われることはありませんでした。そして最後にたどり着いたのが阿弥陀様の念仏一つで救われるという誓いの念仏です。阿弥陀様が名号として私たちに語り掛けて下さる念仏に出遇われたことにより、救われたのです。
私たちにとって問題なのは名号として名乗り出て下さっている阿弥陀様に私たちが出遇うことができるかどうかということです。
曽我量深師が御門徒に乞われて言われた言葉があります。それは若い女性が姑さんに頼まれて、何か曽我先生にありがたい言葉を書いてくれるようにお願いした時に書かれた言葉です。その内容は3点の問答でした。
Q1.仏様とはどんな人ですか?
Ans.私は南無阿弥陀仏であると名のっておいでになります
Q2.仏様はどこにおられますか?
Ans.仏様を念ずる人の前におられます
Q3.仏様を念ずるにはどのような方法がありますか?
Ans.「仏たすけましませ」と念じなさい。いつでもどこでもだれでもたやすく念ずることができます。
これらの問答より、仏様の方から名乗り出て、私たちを掴まえて下さるということが知られます。仏様に出会うことを浄土真宗では「回心」と言います。一度出会うと、決して別れることのない出会いになります。御文五帖目二十二通には以下のようなものがあります。
そもそも、当流勧化のおもむきをくはしくしりて、極楽に往生せんとおもはんひとは、まづ他力の信心といふことを存知すべきなり。それ、他力の信心といふはなにの要ぞといへば、かかるあさましきわれらごときの凡夫の身が、たやすく浄土へまゐるべき用意なり。(以下略)
法然上人、親鸞聖人共に長い年月をかけて聖道門の修行をしてきましたが、その結果わかったことは自分自身が「かかるあさましきわれらごときの凡夫」ということでした。修行に躓いたことによって、本当の自分に出会うことができました。自分自身のことは自分が一番わかっていると考えますが、私たちは「正体不明」「行先不明」で人生を生きているのではないでしょうか?自分の人生はこれから果たしていいことがあるのか、悪いことがあるのか、この先どのようになるかわかりませんが、「死」から逃れることはできません。しかし、真宗門徒であれば最終的にはお浄土に還ります。還るべき国があります。和讃では法然上人は「浄土に還帰せしめけり」とあります。親鸞聖人は亡くなる前に弟子たちに対して、必ず浄土で待ってますと伝えました。そういった信仰上の信念は生きる上での大切なものとして私たちはいただくことができます。
教行信証の行巻に「しかれば名を称するに、能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生の一切の志願を満てたまう。」と記してあります。お念仏には「はたらき」があります。
「無明を破す」とは私たちの世界が無明であることを知らしめて下さることです。先日、お孫さんが病気になったのは田舎のお墓の墓じまいをしたせいではないかという相談を受けました。お宅に伺って詳しくお話しを聞くと、家族内の人間関係において少し考える方がよいのではないかという問題が見えてきました。私はその問題を改善するとお孫さんの病気の原因の一つは解消されるのではないかと思いました。どんな問題にも自分の糸はからんでいるものです。また、看病に伴って家事も大変になるので、その辛さのために、ついつい愚痴も出てくるとも話されました。しかし、愚痴をこぼしている自分に気が付いておられます。愚痴をこぼしている自分の姿、自らが煩悩具足の凡夫と気付いておられます。とても尊いことだと思いました。蓬茨祖運先生は「お念仏は光である」と言われました。私たちの闇を照らし出すのが光です。
「一切の志願を満てたまう。」とは大きな満足を私たちに与えて下さるということです。悟りを表す言葉として「常楽」「大楽」があります。「楽」は単に「楽しい」という意味ではありません。ふつうは楽しいことはいつか終わりが来ます。願い事がかなうことを助かると言いますが、かなったら満足するでしょうか。かなってしまったらまた新しい願い事が出てきます。「常楽」「大楽」「一切の志願を満てたまう。」とは何でしょうか?楽しいこと、つらいこと全てを含めた一切を受け止めて、それらを通して何かを得ることです。
仏法のご縁をいただく機会としては「逆縁」によるものが多いように思います。「さればよきことも、あしきことも業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまゐらすればこそ、他力にては候へ」は歎異抄のことばですが、都合のいいことも悪いことも自分ひとりの力でなんとかなるものではなく、受け入れることができれば形が変わって全てよいことになります。「一切の功徳にすぐれたる 南無阿弥陀仏をとなふれば 三世の重障みなながら かならず転じて軽微なり」は現生利益和讃ですが、これは念仏に最高の功徳があることを表したものです。過去現在未来の三世にわたるような重い障り・業報さえも必ず形が変わって少し軽くなるということです(消えてなくなるものではありませんが)。お念仏のはたらきによって、たとえ重たい問題であっても自分との係りについて気付き、それを背負って再び立ち上がる力が与えられるということです。