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真宗の教え

PREACHING

2019/10/23

最初に三帰依文を唱和しましたが、これは仏・法・僧の三宝に帰依しますということです。その中でも「法」は最も大事なものです。「法」は水が上から下に流れるような道理のことを示しており、仏法とはその道理を教えるものです。道理の際たるものは「生まれたら、必ず死ぬ」ということです。「仏」はその道理を教えてくれる先生のことで、「僧」はその道理を教えてくれる友達のことです。

わたしたちが生活において最も「宝」にしているものは「財宝」ということばの通り、「お金」ではないでしょうか。お金の他にも私たちは「健康」や「家族」も大切にしています。お釈迦様は生きている限り「老いて」「病んで」「死んでいく」と説かれました。「法」とはこういう道理であり、その「法」が説かれるお寺は私たちが生きていることを確かめる場所です。私たちは日々懸命に生きていますが、ふとした瞬間に何のために生きているのかわからなくなることがあります。

「無明」という言葉がありますが、藤場俊基さんはこの言葉を遊園地に例えています。遊園地のパスポートを持った子供たちはすぐさま目的のアトラクションに向かって迷うことなく走ります。次から次へとアトラクションに向かいますが、半日でも放っておくと確実に迷子になります。その瞬間瞬間は迷うことなく進みますが、全体として見ると、その一つ一つが迷いの道に突き進んでいることになります。一心不乱にアトラクションに進んでいるときは自分が迷っていることに気付くことはなく、道を求めることはありません。迷ったときに初めて道を求めるようになります。

私たちも日常生活においては同様に、目の前の目標に対して懸命に努力して目的を果たそうとします。しかし、人生全体としてどこに向かっているのかという問いに対してきちんと答えることはできるでしょうか?懸命に生きている中で「どこに向かっているのか?」という「声を聞く」ことは大切なことです。

村上志染さんの詩を1つ紹介したいと思います。

 

方一尺の天地

水馬(ミズスマシ)しきりに円を描ける

汝いずこより来りて いずこへ旅せんとするや

「ヘイ 忙しおましてな」

 

私たちはミズスマシのように同じところをクルクルと回っているようなものです。そういう中で「どこに向かっているのか?」という声が聞こえてくるのはとても大切なことです。忙しくしていると、こういった声もかき消されてしまいます。「忙しい」という字は「心を亡くす」と書きます。安田理深先生は「忙しいのは暇な証拠だ。なぜなら人生の根本問題を考えてなくて済むからだ」と言われました。

私たちは生まれた頃から物心がつくまでのことは何も覚えていません。次第に人生について考えるようになるのが青年期頃でしょうか。忙しい壮年期にはあまり考える時間的余裕がありませんが、老年期になるとより深く人生について問いかけるようになります。生きることについて見つめなおすことが先ほど申し上げた「声が聞こえる」ということです。お浄土に生まれるということは「声が聞こえてくること」と先輩が教えてくれたことを思います(妙声功徳)。

「声」といえば、20年ほど前に目にした小1の「あかぎかずお」くんの詩を思い出します。その詩を紹介します。

おかあちゃんが きをつけてねと いった

ぼくは「はい。いってきます」といった

おかあちゃんのこえがついてきた

がっこうまでついてきた

 

もちろん学校までお母さんが歩いてついてきたわけではありません。お母さんは学校にはいません。でも声は学校までついてきました。亡き人はいまはここにはいません。でも、お浄土から私たちを気遣う多くの声がかけられています。その声を聞くことがお浄土に生まれることだと思います。亡くなってはじめて自分にとって「妙声」として受け止めることができる場合もあります。

「南無阿弥陀仏」は自分が発している声ですが、それは仏様からのよび声です。「阿弥陀様にまかせなさい」という心を伝える声です。その仏様の心を受け取ることができるときにその声は「妙声(妙なる声)」となります。

「闇」という字は「音が閉じる」と書きます。親鸞聖人は教行信証の中で「音」を「こえ」と読みました。つまり「闇」とは「声が閉ざされている世界」を指すことになります。そのことを「無明」といいます。

日常生活の中においても何気ない一言をありがたいと受け取ることが「声を聞く」ことになります。しかし、実際に音に出さなければ「闇」を破ることはできません。つまり実際に声にだすことが「闇」を破ることにつながると思います。何気ないことですが、それを「闇」という字は教えてくれます。反対に声が聞こえないということはその人の心を慮ることができないということです。「声」とは「呼びかけ」であり、「呼びかけ」を聞くことは大切なことだと思います。

御和讃の中に「一切の有碍にさわりなし」という言葉があります。これは「よろずのさわりあることさわりなし」という意味です。私たちは物質的には豊かになりましたが、心は貧しくなったのではないでしょうか。先日「人間は失敗からも学ぶことができる豊かな存在です」という言葉を若い人たちに紹介しましたが、これは「さわりあることさわりなし」ということを意味する言葉の一つだと思います。また「老い」も大きなさわりのひとつですが、東井義雄先生は身体的機能は年齢と共に衰えていくが、それと反比例するように多くの老のよろこびを感じることができるようになると言われました。「老い」はおおきな「さわり」ですが、「老い」を縁としていろいろな物言わぬ声が聞こえるようになります。

お浄土からの「妙なる声」が聞こえてくることが「浄土に生ずることをうる」ことなのでしょう。お浄土に生まれるとは死後のことではなく、今、その声が聞こえてくることではないかと思います。「いずれ私たちは枯れていく、一日一日丁寧に生きなさいよ」という声が聞こえて来れば、それは「妙声功徳成就」であり、お浄土からの呼びかけの声なのです。

 

 


2019/05/10

お彼岸の意味はご存知ですか?彼岸は向こう側の岸という意味です。これに対してこちら側の岸は此岸と言います。彼岸はお浄土であり、此岸は地獄と言います。仏教はお浄土に行く方法を教えてくれます。お聖教にはその方法が書いてあります。中国語のお聖教を日本語に訳して内容を知ることはお浄土に行きたいという我々の欲望を満たすこととなります。合掌も同様に私たちの欲望を満たすために仏さまにお願いをする行為です。実は地獄と浄土は場所の名前ではなく、我々のものの見方の名称です。地獄は私たちの心の中にあり、私たちがどこに行こうとも一緒に付いてきます。これに対して、お浄土は常に私たちのいる場所と反対側の場所にあります。「浄土」は「余計なものがない」という意味で、「邪見」なものの見方がないことです。自分にとって都合がいいことがよいことで、都合が悪いことは悪いことです。すると、人にとってそれぞれ都合がいいことと悪いことが異なることになります。ある人にとっては不幸なことでも、反対側から見れば有難いことは色々とあります。ですので、私たちの見方では普遍的にいいとか悪いとかは決められることは存在しないことになります。仏教はいいこととか悪いことは存在しないということを教えてくれる教えです。

仏教で「無我」という言葉があります。「無我」とは自分中心のものの見方や主観的なものの見方を否定する言葉です。言い換えると客観的なものの見方を勧めます。「わたし」に対しての「みんな」という観点からのものの見方です。すると「いいことも悪いこともない」ということがこの世の本当の姿ということになります。「いいこと」を決めてしまうと、それを目指して自分自身が「しんどい」思いをすることになります。これをやめ、広い視野を持つことによって「楽に生きる」ことができるようになります。広い視野とは「無量寿」長い時間を軸とした視野と「不可思議光」広い空間を軸とした視野によって構成されます。

「如来」は「如去(にょこ)」とも言います。「そのままの世界から来る人」と「そのままの世界へ去っていく人」という意味です。「そのままの世界」とは「いいも悪いもない世界」です。「いいも悪いもない世界」で欲望がなくなった状態を「無為涅槃」といいます。仏教の最終目的は「無為涅槃」の状態になることです。これはとても楽に暮らせる状態です。漫画で有名なバカボンは「薄伽梵」というインドの言語でお釈迦様を呼ぶときの言葉に由来しており、「これでいいのだ」が口癖です。「これでいいのだ」と考えると、楽に生きることができます。

正信偈に「依修多羅顕真実」という言葉があります。これはお経に真実が記されているということです。この世にはいいも悪いも存在しないという真実、お釈迦様はこの真実に最初に気付かれた人です。真実は明らかにされていますが、問題は我々が納得できるかどうかということです。仏教は科学と性格の似た客観的なものの見方を行うという側面を有しており、理屈を重視します。これに対して感情的なものの見方を「邪見」と言います。「邪見」は私たちを幸せにするものではありません。天親菩薩はこのことを明らかにされました。また、正信偈には「龍樹大士、世に出でて、悉く能く有無の見を摧破せり」とあり、「いいことも悪いこともない(有の見解も無の見解もない)」という意のことが記されています。龍樹菩薩はこのことを「空」と表現されました。「空」は何もないゼロの状態のことを示すものです。このことに納得すれば、とても楽な気持ちになります。仏教の救いは欲望のなくなった状態になることです。生死に振り回されない教えが仏教の教えです。

また、「無常」とは「この世は変化し続けるものであり、何物によってもその変化を変えることはできない」という意味です。内陣に供えられている華はそれを象徴するものです。「無我」は「我」の見解を否定することです。内陣のローソクは時に灯りとなって周りを照らしますが、その熱は時に都合の悪いものとなります。そこでローソクは「この世にはいいも悪いも存在しない」ことの象徴となります。

いままでお話しさせていただいたことに納得された方は今すでに救われています。そうではない方は邪見に振り回されています。仏様の教えとは私たちが「楽に生きる」ための教えなのです。


2019/03/15

今年は平成最後の年です。まだ8日しか経っていませんが、その間に月に関する話題が2つありました。1つは中国が月の裏側に人工衛星を着陸させたことです。もう一つは太陽と地球の間に月が入って部分日食があったことです。月に関することと言えば、法然上人が月のことを和歌にしています。
「月影の いたらぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞすむ」
この和歌に曲がつけられた「月影」は浄土宗の宗歌であると共に、浄土宗の宗門の学校の校歌にも使われています。
「影」は「光」そのものの意味です。「月影の いたらぬ里は なけれども」は月の光はどの場所にも隔てなく届いているという意味です。昔は今と違って夜が真っ暗だったので、月の光の方が太陽の光より印象深いものでした。「眺むる人の 心にぞすむ」とは普段意識することがなく、当たり前のように思える月を見上げる人だけの心のなかに澄みわたっているという意味です。月を見あげる気持ちがない人にはその光が澄み渡ることはありません。月に例えられているのは阿弥陀さまの慈悲の光のことです。慈悲の光はあらゆる人の下に平等に降り注がれていますが、そのことを知ろうとしない人には光が届いていることがわかりません。
ところで、初めて空にある月のことを月として私たちが認識した時のことを覚えていますか?恐らく誰かから「あれが月だよ」と指を指して教えてもらったからではないでしょうか?七高僧の第一は龍樹という人です。龍樹は「大智度論」という本を著されました。その中に「指月の譬」があります。これは月のことを知らない人に月を教えるためには、月を指で指し示して教えますが、月のことを知らない人は月を指している指の方に注目してしまうということを表しています。月のことを教えるためには指し示すことが必要ですが、指を使うと指の方に注目されてしまうというジレンマが生じます。月は阿弥陀仏の教えを示し、指は仏法を説く人のことを示します。仏法を説く人にばかり注目すると、本当の仏法が見えなくなりますよという譬えです。仏法を学ぶ過程においては「月」を見ずに「指」ばかりが気になってしまうというのはありがちなことです。阿弥陀仏の教えは「不可称不可説不可思議」といい「思いはかることも、説きつくすことも、思議することもできない」ものなので、自分自身の心で気付かなければなりません。
朝日新聞のコラムでジュンパ・ラヒリさんの言葉を紹介していました。それは「彼らがわたしの言うことがわからないのは、わかろうとしないからだ」というものです。言葉はそれを聞こうとする人のもとにしか届きません。関心のない人にはいくら言葉を尽くしても伝わりません。それは「聞く」ということは他者を人として尊重する意味合いがあるからだそうです。また、「話す」側にしても聞いてくれる人がいなければ話すということが成立しません。話す側は聞き手を意識して、月を指す指を見られるような話しではなく、指し示した月を見てもらえるような話しをしなければなりません。私も過去の残念な経験を踏まえた上で、自分に言い聞かせています。一方では聞き手の聞き方も最近は変化してきているように思います。話し手は起承転結のようなストーリを考えて話をしますが、はじめから結論を求める人が増えてきているように思います。そこで話し手と聞き手の間で齟齬が生じてくるのは残念なことです。結果的に指示している月を見ていただけないことになってしまうので、言葉というものは難しいものだなと思います。
「月影」はお経(仏説観無量寿経)の「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」という言葉を解釈したものです。阿弥陀様の光はあらゆる人の上に平等に届いています。お念仏を信じる人はそのことをよくご存じですが、信じていない人はそのことを知っていませんということです。法然上人はお経の言葉を伝えるために、よく和歌を詠まれました。
親鸞聖人は「一念多念文意」の中でこう表しています。
もとめざるに無上の功徳をえしめ、しらざるに広大の利益をうるなり
私たちは欲しがらなくても「無上の功徳」を既に得ており、「広大の利益」を受けているのにそのことに気付いていません。その知らない事実を知るためには全てをおまかせして、心から念仏を称えることが必要です。知らないままでいると、いのちを授かって、生かせていただいていることの素晴らしさがわかりません。わからなければ、「もっともっと」と欲しがるばかりで、さらに欲が深まります。満ち足りた喜びの世界に出遇うことができません。「知恩報徳」は恩を知ることによって本当のお念仏を称えることができるということです。それが本当の真宗のいただき方です。「月影」は真宗のいただき方を伝えるものであり、阿弥陀様の慈悲の御心を表現しているものです。


2019/03/11

今年も暮れてきましたが、改めて齢を重ねるごとにつらい別れが増えてくる気がします。お釈迦様は人生は苦の連続であることを教えて下さいました。「愛別離苦」は仏教でいう「四苦八苦」の五番目の苦しみです。愛しいものとも別れていかなければならないといおう苦しみです。私も両親や友人との別れを経験しています。最近、近くのお寺の住職であった友人が亡くなりました。病の中で彼が言っていた「お互いのお寺でお勤めしあうことが、こんなに嬉しいことだとは思わなかった」という言葉を忘れることができません。彼の院号は「大行院」です。「大行」とはお念仏のことです。お念仏は仏様が呼びかけ続ける大きなはたらきです。私たちは大切だと思っていることでも、それに慣れてくると次第に疎かになってきます。「行」も同様に、私の行であれば疎かになってきます。しかし念仏は仏様の「行」ですので、このようなことはありません。仏の行は「常」に行われている大行です。私たちの行は「恒」、つまり「ときどき」仏様からの常なるはたらきかけによって行われるものです。親鸞聖人はこのように仏の行と私たちの行を区別されました。仏様の常なるはたらきかけがあることによって、私たちは安心してときどき念仏を称えることができます。そこに「他力」のはたらきがあると思います。
本山の報恩講は11月21日から28日まで行われますが、これは親鸞聖人が最後に床に臥せられてから亡くなるまでの期間です。その親鸞聖人にとって一番大変であった期間が我々真宗門徒にとって最も大切な報恩講の期間になっています。『御伝鈔』には亡くなられるときに「念仏の息たえましましおわりぬ。」と記してあります。「念仏の息」とは私たちが生きている限り、仏様がはたらきかけ続けているということです。このことが他力であり、「信心」とはそのことに気付くことではないかと思います。
世自在王仏が出て来られる以前、53の仏様がおられました。法蔵菩薩が世自在王仏と出会い、長い期間の思惟とご修行を経て阿弥陀仏となられ、南無阿弥陀仏の念仏を私たちに届けてくれました。阿弥陀仏が出て来られる背景として世自在王仏の前に53の仏様がおられます。背景ということですが、たくさんの方がお寺とご縁を結んでおられますが、そのご縁を結ぶこととなった背景には大切な方を亡くしたという「悲」の逆縁、つまり「愛別離苦」があることが多いと思います。色々な表情の私たちの今、「果」には悲という「因」があるように思います。私たちが南無阿弥陀に出会う背景が53の仏の歴史として説かれているのだと思います。私も両親や友との果としての「悲」しい別れを通して、たくさんの気付き、「因」をいただくことができました。53仏の二番目は光遠仏ですが、宮城先生は「遠ければ遠いほどその光を増すものを光遠仏というのだ」とおっしゃられました。亡くなられたことによって遠くなったからこそ出会わさせていただくことのできるものの象徴として「光遠」を受け取っています。
子どもは親に対してひどい言葉を浴びせることがありますが、それは親に甘えるが故です。しかし、親が生きている間にそのことに気付くことはないでしょう。正親含英先生は「親に三種の親あり」とおっしゃていました。一つめは戸籍上の親で、私をこの世に産み出してくれた親です。二つめは育ての親で毎日の生活を共にする親です。その親は百面相の親と呼ばれます。これはこちら側の想いによって百のあるが如く変化する親です。こちらの都合によって姿を表す親です。親が生きてる間はこちらの都合に合わせて変化するので、本当の意味での出会いはないのでしょう。三つめは自分が苦しいときに「お父さん」「お母さん」という呼び声としてはたらきかけてくる親です。つらいときでも調子のいいときでも見守り続けてくれる親です。曽我量深先生は念仏のことを「念念仏」とおっしゃられました。「わたしのことを念じてくれる仏を念ずる」という意味です。どんな時でもわたしのことを念じてくれる、それが三つめの親との出会いでしょう。悲しいかな生きてる間にこの出会いを果たすのは難しい。親との本当の意味での出会いは亡くなった後になるのではないかなと思います。「遠ければ遠いほどその光を増す」光遠仏という言葉が胸に響きます。両親や友との悲しい別れを通して、光遠仏という言葉に改めて出遇わせていただいたのではないかと思います。


2019/02/03

今日は報恩講の「報恩」という言葉について考えます。この言葉は宗祖親鸞聖人の三十三回忌より意識されるようになりました。覚如は聖人三十三回忌のときに報恩講式という聖人の徳を称える文を作られました。これは聖人のことを後世に伝えるために作られた文です。また、蓮如上人は御文の中で、何度も「報恩講」という言葉を使われています。もともと「報恩講」という言葉は親鸞聖人のことで使われていたわけではなく、当時は他宗でも使われていました。蓮如上人が何度も使われたことにより世の中に広まり、浄土真宗固有のことばとして使われるようになりました。地方によっては「御取越」という言葉が使われることもあります。報恩という言葉の語源はお釈迦様のおられたインドのサンスクリット語の「クリタジュニャター」という言葉です。
お釈迦様の教えがインドから中国に伝わって漢文に翻訳され、日本に伝わりました。ただ、同じインドのお経を翻訳したものでも、翻訳した人によって解釈の差異があるため、漢文による表記の違いが何種類もありました。また、翻訳せずにインドの言葉の読み方を採用して当て字として漢字を使用する場合もありました。「南無」は「ナマス」という言葉で意味は「心から信ずる」ということで、「阿弥陀」は「アミターバ」「アミターユス」というインドの言葉を漢字にしたものであり、「ブッタ」というインドの言葉は「覚った者」という意味を持ったものです。親鸞聖人の書かれた教行信証には「「信」はすなはちこれ真なり、実なり、誠なり・・・」とあり、「信」という言葉の意味について様々なお考えを明らかにされました。
先ほど紹介したサンスクリット語の「クリタジュニャター」ですが「クリタ」は「為される」という意味で、「ジュニャター」とは「知る」「悟る」という意味ですから、「なされたことを知る」という意味です。親鸞聖人は「報徳」という言葉を単独で使用するよりも「知恩報徳」という言葉で度々使用しています。「知恩」の字は分解して解釈すると「原因を知る心」となります。「報恩」だと少しニュアンスが違います。七高僧をはじめとした過去の人たちが「知恩報徳」を大事にされていたのでそこから二文字をとって「報恩講」と呼ばれるようになったものと思います。他にも同意の語として「報恩謝德」という言葉も親鸞聖人や蓮如上人は使われました。
龍樹は大乗仏教の祖と言われます。「大乗仏教」は皆共に救われる教えを説く仏教です。主著「大智度論」には「恩の重きを知るがゆえに常に仏を念ず」「恩を知るがゆえに広く供養す」といずれも「恩を知る」と記されてあります。天親は「浄土論」を著し、曇鸞はその注釈書の「浄土論註」を著しました。これには「恩を知りて徳を報ず」と記されています。ここでも「知恩」と「報徳」の関係に言及しています。これによってインドから中国へ浄土教の教えがしっかりと伝えられました。
道綽は曇鸞の石碑にひどく感銘を受けたそうです。その弟子の善導は「往生礼讃」を著し、その中で「大悲伝普化 真成報仏恩」と説かれました。これを受けて親鸞聖人は教行信証の中で「仏恩の深遠なるを信知して正信念仏偈を作る」と記されています。「仏恩」を「信知」して正信偈を作られたことがわかります。「恩を知る」ということが行動を起こす一つの縁となっています。
ボランティア活動で有名な尾畠春夫さんは「かけた情けは水に流せ、受けた恩は石に刻め」と言われました。私たちは反対のことをしがちです。経済的には大きく発展しましたが、他人への感謝やつながり、いのちへの敬愛の念が希薄になっている私たちは幸せでしょうか。私たちの暮らしは豊かになっていますが、幸せになっているでしょうか。
神戸にレインボーハウスという阪神淡路大震災遺児のケアセンターがあります。1999年に使用開始されました。初代館長の林田さんは東北の震災の被災地に施設建設のため東北事務所長として赴任しました。その際阪神大震災の遺児が東北の震災の被災地活動に従事していることを心強く思い、大変喜ばれていました。阪神の震災を経験した遺児たちだからこそ我がこととして受け止め、被災地の人たちに優しく接することができました。受けた恩は与えた人に対して直接お返しすることはできないかもしれませんが、違う形でお返しすることができます。「知恩報徳」恩を知り感謝の気持ちを返すという一つのかたちであると思います。
一念多念文意に「もとめざるに無上の功徳をえしめ、しらざるに広大の利益をうるなり」と記してあります。私たちは求めたわけではないのに、知らないうちにいのちを与えられて暮らすことができています。様々なご縁によって生かされてきたことが知られます。それを知ると、周りに振り分けずにはいられません。共に幸せでなければ自分の幸せにはなりません。本当の幸せとは皆共にそうであることであり、それを表すことばが「知恩報徳」です。


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