今年は平成最後の年です。まだ8日しか経っていませんが、その間に月に関する話題が2つありました。1つは中国が月の裏側に人工衛星を着陸させたことです。もう一つは太陽と地球の間に月が入って部分日食があったことです。月に関することと言えば、法然上人が月のことを和歌にしています。
「月影の いたらぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞすむ」
この和歌に曲がつけられた「月影」は浄土宗の宗歌であると共に、浄土宗の宗門の学校の校歌にも使われています。
「影」は「光」そのものの意味です。「月影の いたらぬ里は なけれども」は月の光はどの場所にも隔てなく届いているという意味です。昔は今と違って夜が真っ暗だったので、月の光の方が太陽の光より印象深いものでした。「眺むる人の 心にぞすむ」とは普段意識することがなく、当たり前のように思える月を見上げる人だけの心のなかに澄みわたっているという意味です。月を見あげる気持ちがない人にはその光が澄み渡ることはありません。月に例えられているのは阿弥陀さまの慈悲の光のことです。慈悲の光はあらゆる人の下に平等に降り注がれていますが、そのことを知ろうとしない人には光が届いていることがわかりません。
ところで、初めて空にある月のことを月として私たちが認識した時のことを覚えていますか?恐らく誰かから「あれが月だよ」と指を指して教えてもらったからではないでしょうか?七高僧の第一は龍樹という人です。龍樹は「大智度論」という本を著されました。その中に「指月の譬」があります。これは月のことを知らない人に月を教えるためには、月を指で指し示して教えますが、月のことを知らない人は月を指している指の方に注目してしまうということを表しています。月のことを教えるためには指し示すことが必要ですが、指を使うと指の方に注目されてしまうというジレンマが生じます。月は阿弥陀仏の教えを示し、指は仏法を説く人のことを示します。仏法を説く人にばかり注目すると、本当の仏法が見えなくなりますよという譬えです。仏法を学ぶ過程においては「月」を見ずに「指」ばかりが気になってしまうというのはありがちなことです。阿弥陀仏の教えは「不可称不可説不可思議」といい「思いはかることも、説きつくすことも、思議することもできない」ものなので、自分自身の心で気付かなければなりません。
朝日新聞のコラムでジュンパ・ラヒリさんの言葉を紹介していました。それは「彼らがわたしの言うことがわからないのは、わかろうとしないからだ」というものです。言葉はそれを聞こうとする人のもとにしか届きません。関心のない人にはいくら言葉を尽くしても伝わりません。それは「聞く」ということは他者を人として尊重する意味合いがあるからだそうです。また、「話す」側にしても聞いてくれる人がいなければ話すということが成立しません。話す側は聞き手を意識して、月を指す指を見られるような話しではなく、指し示した月を見てもらえるような話しをしなければなりません。私も過去の残念な経験を踏まえた上で、自分に言い聞かせています。一方では聞き手の聞き方も最近は変化してきているように思います。話し手は起承転結のようなストーリを考えて話をしますが、はじめから結論を求める人が増えてきているように思います。そこで話し手と聞き手の間で齟齬が生じてくるのは残念なことです。結果的に指示している月を見ていただけないことになってしまうので、言葉というものは難しいものだなと思います。
「月影」はお経(仏説観無量寿経)の「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」という言葉を解釈したものです。阿弥陀様の光はあらゆる人の上に平等に届いています。お念仏を信じる人はそのことをよくご存じですが、信じていない人はそのことを知っていませんということです。法然上人はお経の言葉を伝えるために、よく和歌を詠まれました。
親鸞聖人は「一念多念文意」の中でこう表しています。
もとめざるに無上の功徳をえしめ、しらざるに広大の利益をうるなり
私たちは欲しがらなくても「無上の功徳」を既に得ており、「広大の利益」を受けているのにそのことに気付いていません。その知らない事実を知るためには全てをおまかせして、心から念仏を称えることが必要です。知らないままでいると、いのちを授かって、生かせていただいていることの素晴らしさがわかりません。わからなければ、「もっともっと」と欲しがるばかりで、さらに欲が深まります。満ち足りた喜びの世界に出遇うことができません。「知恩報徳」は恩を知ることによって本当のお念仏を称えることができるということです。それが本当の真宗のいただき方です。「月影」は真宗のいただき方を伝えるものであり、阿弥陀様の慈悲の御心を表現しているものです。
真宗の教え
PREACHING