神戸市灘区で納骨堂があるお寺をお探しなら永代供養ができる真宗大谷派(浄土真宗)璧圓寺へ。法事・葬儀もお任せ下さい。

真宗の教え

PREACHING

2020/06/24

新型コロナウイルスによって、我われの日常生活に支障をきたし、厳しい経済状況にあることが多く報じられている。また、人のいのちを奪っていく現実は、数値でしかなかなか報道されない。先日、ウイルス感染によって亡くなられた方の話を聞いた。ご遺族は、葬儀も出来ず、最期の別れの場でも距離を置き、悲しみに追い打ちをかけられたという。
誰しもが縁によって生まれ死んでいくことは分かっているが、いざ死を前にしたとき、なかなかそのことに頷けない。人生はどうしようもない出来事の連続である。仏法に遇うことは、その頷けない自分との出遇いではないか。仏法を通して、今の世情、自分自身の在り方を受け止めていきたいと思う。(南御堂HPより)

 


2020/03/30

私は新潟県の柏崎市の出身なので、太陽が山から昇って、海へ沈む景観で育ちました。日本は風景に恵まれた国で、どこの土地でも海や山の風景が見られます。親鸞聖人の書かれた書物には海がよく出てきますが、今日は山のはなしをします。私の預かっているお寺は二上山の麓にあり、万葉集にも出ている山なのでよく知られています。低い山ですが、こぶが2つあるような形で、よく目立つ山です。阿弥陀様の来迎図に描かれた山によく似ているので、二上山の方角にお浄土があるものと思われていました。聖徳太子のお墓も奈良から見て西の方角にある二上山の西麓にあります。多くの高貴な人のお墓や古墳もそのライン付近にあります。七高僧の一人である恵心僧都も現在の奈良県當麻付近でお生まれになり、二上山を見て育ちました。その二上山ですが、奈良側から見ると二こぶのうちの右側が高く、左側が低く見えます。一方、大阪側からみると左側が高く、右側が低く見えます。以前、私の法話録に二上山のイラストを描いていただいたのですが、その二上山は私のイメージと異なって、左側が高くなっているものでした。同じ山でも見る場所や見る人によって見え方が違ってきます。私のお寺から二上山を見ると北麓なので二こぶではなく、一こぶに見えます。

加藤恭子さんの著書「伴侶の死」に、人生を山との関係に譬えた記述があります。私のお寺の周りでは、一昔前は葬儀を自宅でするのが当たり前でした。いまではすっかり葬儀会館で行うのが当たり前となりました。加藤恭子さんのご主人は大学の先生をされていて、そのご主人が亡くなった時のことについて書いたのが「伴侶の死」です。当時はまだ家族葬ではなく、普通のお葬式、つまりたくさんの方が弔問に来られるお葬式でした。現役の大学の先生ということで、多くの方が弔問に来られたそうですが、恭子さんは弔問に来られた方のほとんどを知りませんでした。満中陰が終わり、香典返しを出す段になって、恭子さんは弔問に来られた方を一人一人訪問して、お礼を言われました。ご弔問に来られた方と直接お話をすると、自分の知らなかったご主人の姿があることを感じたそうです。山の姿が見る場所によって変わるように、色々な人の目を通したご主人の姿は色々な姿があり、恭子さんは自分自身の側からしかご主人を見ることがなかったことに気付かれました。山の姿をすべての方向から見直すように、ご主人が過去に交わった人を通して見直した訪問は時と人の心への旅をしたような感じがしたそうです。私の義父が亡くなった当時、学校に勤務しており、二月末だったので新学期の用意も進んでいましたが、法務と兼業することは難しいと思い、退職しました。満中陰が明けて、法中方にあいさつに回ると、義父についての色々なお話を伺うことができました。御門徒さんからも色々なお話を伺いました。改めて、私の知らない姿を知ることができ、私の都合でしか義父の姿を見ていなかったことに気が付きました。

写真から気付かされることもあります。作家の小川洋子さんという方がおられます。「博士の愛した数式」という作品は映画化もされています。小川さんが芥川賞を受賞したときに写真が新聞に載りました。その新聞を見た小川さんの母親が電話で開口一番言った言葉はお祝いの言葉ではなく、「あなた、もうちょっときれいな恰好はできなかったの?」だったそうです。母親は毛玉のついたセーターを晴れの舞台に着る娘が気になったようです。次に美容関係の仕事をする友達が電話で言った言葉は「まゆ毛はもうちょっと何とかならなかったの?」だったそうです。美容関係の仕事をする人にとってはまゆ毛が気になって仕方なかったようです。その他にも色々な立場の人から、色々な意見をいただいたそうです。また、その写真に小川さんの家の台所が写っており、映り込んでいた洗剤のメーカーの人から洗剤のプレゼントが届いたそうです。メーカーにとっては、洗剤のいい宣伝になったためです。

同じ写真を見ていても、それぞれの人の受け取り方はまさに三者三様です。自分にとって関心のあるところはよく見えていますが、興味のないところは目に映っていても見えていません。一つの事実に対して、人それぞれの真実が複数存在しています。事実と真実は同じものとして考えがちですが、事実の認識のしかたは私たち一人ひとりが全て完璧にできているわけではありません。同様に私たちは身近な人をよく知っていると思っていても、知っているのはその人の一面であって、すべてを知っているわけではありません。事実と真実は同じものだと思っていても、私たちの知っている事実は真実の一部であって、真実全てではありません。『無量寿経』には、私たちは何でも知っていると思っているが、知らないことが海の水ほどもあり、知っていることは一滴の水ほどに過ぎないと記されています。「真宗」とは「真実の宗」です。真実とは、いかに私たちが何も知らないかということを知ることによって、自分が何によって、どういうご縁(そのご縁とは遥か過去に遡るものも含まれます)によって生かされているかを知り、いのちの尊さを感じることができれば、いのちの終わりとお浄土とのご縁を感じることができます。この他にも自分の存在が思いがけないところで他者に影響を及ぼしている、そういう予期せぬご縁もありえます。例えば、入学試験で、自分が合格したために、顔も知らない誰かが他の学校に行くこととなって、結果的に人生の進路が変更になったことが考えられます。阿弥陀様からいただいたいのちは私一人のものではなく、永遠に続くいのちの流れの一部として様々なところに影響を与え続けており、他のものと繋がり続けているということが言えるでしょう。真実の宗とは、こうした多くのいのちとのご縁に気付くことによって、いのちの広さや深さを私たちに知らしめるものです。いのちを大事にしようという思いが深まり、今いのちあることのありがたさを喜べるようになると思います。聞法を重ねるということはこういったことを知るための一つの方法であり、そのことが真宗をして聞法を大切なものとして大事にせしめた理由であり、そのことを伝え続けなければならないと思います。


2020/02/27

私たちは年齢を重ねると、物覚えが悪くなったり、身体が思うように動かなくなったりしてしまいます。災害時には高齢者は早めに避難するように行政も呼び掛けています。「いのちを守る行動をして下さい」と今年の豪雨の際に呼び掛けられているのをよく耳にしました。この言葉は流行語大賞にもノミメートされていました。

仏教には

「随所に主となれば立つ処 皆真なり」 臨済義玄「臨済録」

という臨済宗の言葉があります。これは「常に自分自身を見失うな」という意味です。現代に生きる私たちは時に情報が多すぎて、かえってそのことに惑わされることもあります。主体性を持って、自分を見失わないということは大切なことです。

これに対して、金子大栄先生は「随所に従となる」と言われました。臨済宗の言葉とは全く反対の言葉です。金子先生がこう言われた根底には親鸞聖人の「自然法爾」というお言葉があります。これは「現実をそのまま受け止めて生きれば、それが自分らしく生きることだ」という意味です。今年の災害を振り返って見ると、人間の作為によって被害が拡大した面も見受けられるように思います。そういった面においても「あるがまま受け入れる」ということは大切なことかもしれません。

私は砂漠が好きで、世界の中でも大きいと言われる砂漠の何ケ所かに行ったことがあります。砂漠といえばラクダですが、ラクダの生態を見ると「随所に従となる」という生き方の意味がよくわかるように思います。

私たちは生きてる中で、なかなか自分自身に満足が出来ません。それはある意味では自分で自分を見捨てている姿であるといえます。真宗の教えは今の自分自身に出会うことです。それが「自然法爾」であり「随所に従となる」ということです。

ラクダは砂漠という過酷な環境下で生きています。ラクダのコブの中には脂肪が含まれていてエネルギーとして使用します。ラクダの胃には多くの水を貯められます。そのため1ケ月以上も飲まず食わずで生き続けることができるそうです。また、ラクダは鼻の穴を開け閉めできます。これは砂や熱気が急に体の中に入らないようにするためです。ラクダの足は肉厚で大きくなっています。これは砂をガッチリとつかんで砂の上でも歩きやすいためです。砂の熱さにも耐えられる足の裏になっています。ラクダは匂いを嗅ぐ能力も優れていて、水の匂いを感知できます。砂漠でわずかな水の匂いを嗅ぎつけることができます。ラクダほど自分の生きている環境に能力を適合させた生きものはいないかもしれません。

砂漠ではところどころに草が生えている場所があります。その草の根は時に数十メートルにも及ぶことがあります。その根は深い場所にある地下水を目指して延びています。そういった草には硬い棘が生えていて、動物が草を食べることができないように守っています。しかし、ラクダはその草を食べます。食べることによって口の中は血だらけになりますが、血と共に棘も飲み込みます。その草はラクダのみが食べることができるもので、名前はラクダ草と言います。

ラクダは長い年月をかけて、環境に見事に適応した例ですが、親鸞聖人は「わが計らわざるを自然と申すなり。これ即ち他力にてまします。」とおっしゃいました。つまり、「周りに逆らわずにそのまま素直に受け入れる。それが「即ち他力である」ということです。人間の種々の計らいにより便利で快適な暮らしをできるようになりましたが、人間が人間として人間らしい暮らしをできるようになっているかどうかを振り返ることが必要でしょう。自分で変更することのできない自分のいのちについて、計らうことなくありのまま受け入れて生きることが大切ですよということを親鸞聖人は言いたいのではないかと思います。それが「自然法爾」「随所に従となる」ということではないのかと思います。


2019/10/23

最初に三帰依文を唱和しましたが、これは仏・法・僧の三宝に帰依しますということです。その中でも「法」は最も大事なものです。「法」は水が上から下に流れるような道理のことを示しており、仏法とはその道理を教えるものです。道理の際たるものは「生まれたら、必ず死ぬ」ということです。「仏」はその道理を教えてくれる先生のことで、「僧」はその道理を教えてくれる友達のことです。

わたしたちが生活において最も「宝」にしているものは「財宝」ということばの通り、「お金」ではないでしょうか。お金の他にも私たちは「健康」や「家族」も大切にしています。お釈迦様は生きている限り「老いて」「病んで」「死んでいく」と説かれました。「法」とはこういう道理であり、その「法」が説かれるお寺は私たちが生きていることを確かめる場所です。私たちは日々懸命に生きていますが、ふとした瞬間に何のために生きているのかわからなくなることがあります。

「無明」という言葉がありますが、藤場俊基さんはこの言葉を遊園地に例えています。遊園地のパスポートを持った子供たちはすぐさま目的のアトラクションに向かって迷うことなく走ります。次から次へとアトラクションに向かいますが、半日でも放っておくと確実に迷子になります。その瞬間瞬間は迷うことなく進みますが、全体として見ると、その一つ一つが迷いの道に突き進んでいることになります。一心不乱にアトラクションに進んでいるときは自分が迷っていることに気付くことはなく、道を求めることはありません。迷ったときに初めて道を求めるようになります。

私たちも日常生活においては同様に、目の前の目標に対して懸命に努力して目的を果たそうとします。しかし、人生全体としてどこに向かっているのかという問いに対してきちんと答えることはできるでしょうか?懸命に生きている中で「どこに向かっているのか?」という「声を聞く」ことは大切なことです。

村上志染さんの詩を1つ紹介したいと思います。

 

方一尺の天地

水馬(ミズスマシ)しきりに円を描ける

汝いずこより来りて いずこへ旅せんとするや

「ヘイ 忙しおましてな」

 

私たちはミズスマシのように同じところをクルクルと回っているようなものです。そういう中で「どこに向かっているのか?」という声が聞こえてくるのはとても大切なことです。忙しくしていると、こういった声もかき消されてしまいます。「忙しい」という字は「心を亡くす」と書きます。安田理深先生は「忙しいのは暇な証拠だ。なぜなら人生の根本問題を考えてなくて済むからだ」と言われました。

私たちは生まれた頃から物心がつくまでのことは何も覚えていません。次第に人生について考えるようになるのが青年期頃でしょうか。忙しい壮年期にはあまり考える時間的余裕がありませんが、老年期になるとより深く人生について問いかけるようになります。生きることについて見つめなおすことが先ほど申し上げた「声が聞こえる」ということです。お浄土に生まれるということは「声が聞こえてくること」と先輩が教えてくれたことを思います(妙声功徳)。

「声」といえば、20年ほど前に目にした小1の「あかぎかずお」くんの詩を思い出します。その詩を紹介します。

おかあちゃんが きをつけてねと いった

ぼくは「はい。いってきます」といった

おかあちゃんのこえがついてきた

がっこうまでついてきた

 

もちろん学校までお母さんが歩いてついてきたわけではありません。お母さんは学校にはいません。でも声は学校までついてきました。亡き人はいまはここにはいません。でも、お浄土から私たちを気遣う多くの声がかけられています。その声を聞くことがお浄土に生まれることだと思います。亡くなってはじめて自分にとって「妙声」として受け止めることができる場合もあります。

「南無阿弥陀仏」は自分が発している声ですが、それは仏様からのよび声です。「阿弥陀様にまかせなさい」という心を伝える声です。その仏様の心を受け取ることができるときにその声は「妙声(妙なる声)」となります。

「闇」という字は「音が閉じる」と書きます。親鸞聖人は教行信証の中で「音」を「こえ」と読みました。つまり「闇」とは「声が閉ざされている世界」を指すことになります。そのことを「無明」といいます。

日常生活の中においても何気ない一言をありがたいと受け取ることが「声を聞く」ことになります。しかし、実際に音に出さなければ「闇」を破ることはできません。つまり実際に声にだすことが「闇」を破ることにつながると思います。何気ないことですが、それを「闇」という字は教えてくれます。反対に声が聞こえないということはその人の心を慮ることができないということです。「声」とは「呼びかけ」であり、「呼びかけ」を聞くことは大切なことだと思います。

御和讃の中に「一切の有碍にさわりなし」という言葉があります。これは「よろずのさわりあることさわりなし」という意味です。私たちは物質的には豊かになりましたが、心は貧しくなったのではないでしょうか。先日「人間は失敗からも学ぶことができる豊かな存在です」という言葉を若い人たちに紹介しましたが、これは「さわりあることさわりなし」ということを意味する言葉の一つだと思います。また「老い」も大きなさわりのひとつですが、東井義雄先生は身体的機能は年齢と共に衰えていくが、それと反比例するように多くの老のよろこびを感じることができるようになると言われました。「老い」はおおきな「さわり」ですが、「老い」を縁としていろいろな物言わぬ声が聞こえるようになります。

お浄土からの「妙なる声」が聞こえてくることが「浄土に生ずることをうる」ことなのでしょう。お浄土に生まれるとは死後のことではなく、今、その声が聞こえてくることではないかと思います。「いずれ私たちは枯れていく、一日一日丁寧に生きなさいよ」という声が聞こえて来れば、それは「妙声功徳成就」であり、お浄土からの呼びかけの声なのです。

 

 


2019/05/10

お彼岸の意味はご存知ですか?彼岸は向こう側の岸という意味です。これに対してこちら側の岸は此岸と言います。彼岸はお浄土であり、此岸は地獄と言います。仏教はお浄土に行く方法を教えてくれます。お聖教にはその方法が書いてあります。中国語のお聖教を日本語に訳して内容を知ることはお浄土に行きたいという我々の欲望を満たすこととなります。合掌も同様に私たちの欲望を満たすために仏さまにお願いをする行為です。実は地獄と浄土は場所の名前ではなく、我々のものの見方の名称です。地獄は私たちの心の中にあり、私たちがどこに行こうとも一緒に付いてきます。これに対して、お浄土は常に私たちのいる場所と反対側の場所にあります。「浄土」は「余計なものがない」という意味で、「邪見」なものの見方がないことです。自分にとって都合がいいことがよいことで、都合が悪いことは悪いことです。すると、人にとってそれぞれ都合がいいことと悪いことが異なることになります。ある人にとっては不幸なことでも、反対側から見れば有難いことは色々とあります。ですので、私たちの見方では普遍的にいいとか悪いとかは決められることは存在しないことになります。仏教はいいこととか悪いことは存在しないということを教えてくれる教えです。

仏教で「無我」という言葉があります。「無我」とは自分中心のものの見方や主観的なものの見方を否定する言葉です。言い換えると客観的なものの見方を勧めます。「わたし」に対しての「みんな」という観点からのものの見方です。すると「いいことも悪いこともない」ということがこの世の本当の姿ということになります。「いいこと」を決めてしまうと、それを目指して自分自身が「しんどい」思いをすることになります。これをやめ、広い視野を持つことによって「楽に生きる」ことができるようになります。広い視野とは「無量寿」長い時間を軸とした視野と「不可思議光」広い空間を軸とした視野によって構成されます。

「如来」は「如去(にょこ)」とも言います。「そのままの世界から来る人」と「そのままの世界へ去っていく人」という意味です。「そのままの世界」とは「いいも悪いもない世界」です。「いいも悪いもない世界」で欲望がなくなった状態を「無為涅槃」といいます。仏教の最終目的は「無為涅槃」の状態になることです。これはとても楽に暮らせる状態です。漫画で有名なバカボンは「薄伽梵」というインドの言語でお釈迦様を呼ぶときの言葉に由来しており、「これでいいのだ」が口癖です。「これでいいのだ」と考えると、楽に生きることができます。

正信偈に「依修多羅顕真実」という言葉があります。これはお経に真実が記されているということです。この世にはいいも悪いも存在しないという真実、お釈迦様はこの真実に最初に気付かれた人です。真実は明らかにされていますが、問題は我々が納得できるかどうかということです。仏教は科学と性格の似た客観的なものの見方を行うという側面を有しており、理屈を重視します。これに対して感情的なものの見方を「邪見」と言います。「邪見」は私たちを幸せにするものではありません。天親菩薩はこのことを明らかにされました。また、正信偈には「龍樹大士、世に出でて、悉く能く有無の見を摧破せり」とあり、「いいことも悪いこともない(有の見解も無の見解もない)」という意のことが記されています。龍樹菩薩はこのことを「空」と表現されました。「空」は何もないゼロの状態のことを示すものです。このことに納得すれば、とても楽な気持ちになります。仏教の救いは欲望のなくなった状態になることです。生死に振り回されない教えが仏教の教えです。

また、「無常」とは「この世は変化し続けるものであり、何物によってもその変化を変えることはできない」という意味です。内陣に供えられている華はそれを象徴するものです。「無我」は「我」の見解を否定することです。内陣のローソクは時に灯りとなって周りを照らしますが、その熱は時に都合の悪いものとなります。そこでローソクは「この世にはいいも悪いも存在しない」ことの象徴となります。

いままでお話しさせていただいたことに納得された方は今すでに救われています。そうではない方は邪見に振り回されています。仏様の教えとは私たちが「楽に生きる」ための教えなのです。


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