最初に三帰依文を唱和しましたが、これは仏・法・僧の三宝に帰依しますということです。その中でも「法」は最も大事なものです。「法」は水が上から下に流れるような道理のことを示しており、仏法とはその道理を教えるものです。道理の際たるものは「生まれたら、必ず死ぬ」ということです。「仏」はその道理を教えてくれる先生のことで、「僧」はその道理を教えてくれる友達のことです。
わたしたちが生活において最も「宝」にしているものは「財宝」ということばの通り、「お金」ではないでしょうか。お金の他にも私たちは「健康」や「家族」も大切にしています。お釈迦様は生きている限り「老いて」「病んで」「死んでいく」と説かれました。「法」とはこういう道理であり、その「法」が説かれるお寺は私たちが生きていることを確かめる場所です。私たちは日々懸命に生きていますが、ふとした瞬間に何のために生きているのかわからなくなることがあります。
「無明」という言葉がありますが、藤場俊基さんはこの言葉を遊園地に例えています。遊園地のパスポートを持った子供たちはすぐさま目的のアトラクションに向かって迷うことなく走ります。次から次へとアトラクションに向かいますが、半日でも放っておくと確実に迷子になります。その瞬間瞬間は迷うことなく進みますが、全体として見ると、その一つ一つが迷いの道に突き進んでいることになります。一心不乱にアトラクションに進んでいるときは自分が迷っていることに気付くことはなく、道を求めることはありません。迷ったときに初めて道を求めるようになります。
私たちも日常生活においては同様に、目の前の目標に対して懸命に努力して目的を果たそうとします。しかし、人生全体としてどこに向かっているのかという問いに対してきちんと答えることはできるでしょうか?懸命に生きている中で「どこに向かっているのか?」という「声を聞く」ことは大切なことです。
村上志染さんの詩を1つ紹介したいと思います。
方一尺の天地
水馬(ミズスマシ)しきりに円を描ける
汝いずこより来りて いずこへ旅せんとするや
「ヘイ 忙しおましてな」
私たちはミズスマシのように同じところをクルクルと回っているようなものです。そういう中で「どこに向かっているのか?」という声が聞こえてくるのはとても大切なことです。忙しくしていると、こういった声もかき消されてしまいます。「忙しい」という字は「心を亡くす」と書きます。安田理深先生は「忙しいのは暇な証拠だ。なぜなら人生の根本問題を考えてなくて済むからだ」と言われました。
私たちは生まれた頃から物心がつくまでのことは何も覚えていません。次第に人生について考えるようになるのが青年期頃でしょうか。忙しい壮年期にはあまり考える時間的余裕がありませんが、老年期になるとより深く人生について問いかけるようになります。生きることについて見つめなおすことが先ほど申し上げた「声が聞こえる」ということです。お浄土に生まれるということは「声が聞こえてくること」と先輩が教えてくれたことを思います(妙声功徳)。
「声」といえば、20年ほど前に目にした小1の「あかぎかずお」くんの詩を思い出します。その詩を紹介します。
おかあちゃんが きをつけてねと いった
ぼくは「はい。いってきます」といった
おかあちゃんのこえがついてきた
がっこうまでついてきた
もちろん学校までお母さんが歩いてついてきたわけではありません。お母さんは学校にはいません。でも声は学校までついてきました。亡き人はいまはここにはいません。でも、お浄土から私たちを気遣う多くの声がかけられています。その声を聞くことがお浄土に生まれることだと思います。亡くなってはじめて自分にとって「妙声」として受け止めることができる場合もあります。
「南無阿弥陀仏」は自分が発している声ですが、それは仏様からのよび声です。「阿弥陀様にまかせなさい」という心を伝える声です。その仏様の心を受け取ることができるときにその声は「妙声(妙なる声)」となります。
「闇」という字は「音が閉じる」と書きます。親鸞聖人は教行信証の中で「音」を「こえ」と読みました。つまり「闇」とは「声が閉ざされている世界」を指すことになります。そのことを「無明」といいます。
日常生活の中においても何気ない一言をありがたいと受け取ることが「声を聞く」ことになります。しかし、実際に音に出さなければ「闇」を破ることはできません。つまり実際に声にだすことが「闇」を破ることにつながると思います。何気ないことですが、それを「闇」という字は教えてくれます。反対に声が聞こえないということはその人の心を慮ることができないということです。「声」とは「呼びかけ」であり、「呼びかけ」を聞くことは大切なことだと思います。
御和讃の中に「一切の有碍にさわりなし」という言葉があります。これは「よろずのさわりあることさわりなし」という意味です。私たちは物質的には豊かになりましたが、心は貧しくなったのではないでしょうか。先日「人間は失敗からも学ぶことができる豊かな存在です」という言葉を若い人たちに紹介しましたが、これは「さわりあることさわりなし」ということを意味する言葉の一つだと思います。また「老い」も大きなさわりのひとつですが、東井義雄先生は身体的機能は年齢と共に衰えていくが、それと反比例するように多くの老のよろこびを感じることができるようになると言われました。「老い」はおおきな「さわり」ですが、「老い」を縁としていろいろな物言わぬ声が聞こえるようになります。
お浄土からの「妙なる声」が聞こえてくることが「浄土に生ずることをうる」ことなのでしょう。お浄土に生まれるとは死後のことではなく、今、その声が聞こえてくることではないかと思います。「いずれ私たちは枯れていく、一日一日丁寧に生きなさいよ」という声が聞こえて来れば、それは「妙声功徳成就」であり、お浄土からの呼びかけの声なのです。